妻籠宿・馬籠宿(1/2)

岐阜と長野の県境に位置し,何れも古い街並みが保存された山間の小さな宿場町である.

石畳に木造の古い日本家屋が立ち並ぶ.

数年ぶりに訪れた.

私の目的は藤村記念館と中津川の栗きんとん.

何度か訪れているので特に下調べもすることもなかったが,外国人観光客と,アマチュアカメラマンで溢れている光景は予想していなかった.

前に訪れた時は閑散としていて観光客は殆どいなかったので随分と印象が異なる.

ローカルを突き詰めるとインターナショナルに評価されうるというアンビバレンスを実感する.

石造りの西洋の古い建造物とは異なり,日本の古い木造家屋は維持が大変であるし,温熱環境もなかなか厳しいものがある.これを町ぐるみできちんと管理し,風景を守っていくのは大変なことだ.

それでもここで働いている人たちは積極的で,英語やスペイン語を話し,とても生き生きとして見えた.

素晴らしいことだと思う.

・・・文化の本質とはなんだろうか?これはオリエンタリズムの類であり,生活のリアリティがないと距離を置くべき状況であろうか?観光地だからと割り切ることが本当に正しい?

西欧では歴史的景観と現代的な生活や建造物が共存している風景が当たり前のように見られるが日本ではどうか.

日本の木造家屋はそこまで長く使われることを想定したものではないし,そうした風景が見られないことは致し方無いことかもしれないが,古い宿場町の風景が現代の街並みとはあまりにもかけ離れており、文化的断絶を感じてしまう.

現代の住宅地は露悪的なところがある.

個人の欲望や一時の衝動が文化や様式といったフィルターを通さずに,短絡的に表れているような.

建物や街並みは個人の想いよりずっと息が長い. 例え個人の資金によって作られたとしても,子は他人であるし,街に暮らす多くの人に関わる問題である.

歴史や文化の文脈の中で建築をつくることは不自由なことなのであろうか?

住宅を建てるとき,自分の思い通りしようとするあまり,混乱し,自身や家族の首を絞める人は少なくない.

自身を型取るのは周囲との関係性である.

自身の環境を外部のより大きな流れの中に置くことは,むしろ,自身の価値観と精神を自由にするのではないか.

妻籠・馬籠で働く人たちの笑顔を見てそんなことを考えた.